今日の朝日新聞に観劇授業が苦境に立たされているという記事が載っていた。近年、学校での観劇の授業が減っている中でのコロナ禍が追い打ちになったそうだ。これは授業時数確保と多忙化の影響がもろに出ているのだと思う。演劇というのは近隣の学校と調整して、日程を連続させることで、劇団と交渉して安くやってくれたりするものだが、何せ職場に余力がない。教員も人間らしい生活とは程遠いから、芸術の良しあしを吟味する余裕もない。交渉なんてできるわけがない。そこに授業時数確保だ。多くの学校で中止になったり、3年に1度になっているのが実態ではないかと思う。しかし、芸術の価値を今の教育現場は見失っているのではないかと思う。「人材育成」が前面に出て、「人格の完成」とは別のベクトルが働いている。

20年以上も前のことだ。初任校でこんなことがあった。当時の学校は集会を開くのが大変だった。生徒がおしゃべりをしたり、動いたりする。集会は150人の生徒を取り囲むように教員が立ち並ぶのが指導方針となっていた。まるで刑務所だが、当時の困難校と呼ばれた学校で勤務していた先生はイメージができるだろう。だからお客さんを呼んで話をするときには、余計に気を遣う。大体は椅子を並べて動けないようにする作戦がとられていた。

そこで芸術鑑賞「走れメロス」を見るときにどうするかという話になった。教員は椅子を並べるということを劇団に提案したが、「走れメロス」は舞台だけではなく、体育館全体を走りながら、生徒に伝えたいものがあるのだという。職員会議では「そうはいっても生徒が落ち着かなくなったら劇団にも申し訳ない。」という意見がいくつか出た。そこで僕はしびれを切らして発言した。「劇団はプロです。プロが、体育館に座って伝えたいものが言っているというのに、学校がダメだという話は無いでしょう。プロの力を信頼するべきで、生徒の態度がそれで悪くなっても仕方ないではないですか。」と言った。この意見が珍しく通った。

当日の劇はすごかった。本物は違う。走る振動が体育館の床から伝わってくる。メロスが友人の命のために必死に走る姿は生徒の心を打った。誰も興味がないという生徒はいなかった。

田舎ではめったに劇団に触れ合うことはない。学校で見る演劇は人生においてとても貴重なものだと思う。

そして、ふだんの生徒の態度が悪いのは集会の在り方、内容の問題なのではないかとボクは深く思ったものだった。同僚はどう思ったかわからないが…。教員も専門職(授業のプロ)として、授業でも生徒の態度のせいにせず、内容で勝負したいものだ。難しいけど…。

管理主義的な職員会議の中、僕が意見を言えたのは、母がボクに「おたる子ども劇場」で芸術に対する感性を植え付けてくれたからだと思う。