高校配置意見交換の続きです。
 道教委は今年4月からT‐baceという名の遠隔配信事業(全授業が配信になるわけでは無いようです)をしています。小さい学校では、書道や家庭科などの先生の配置が難しかったりするため、これまでは近隣の少し大きな学校から専門の先生に出張授業に行ってもらっていました。これを遠隔配信中心に移行していく計画です。これについては、全否定するものではないかもしれませんが、大きなリスクがあることを指摘してきました。しかし、道教委としては、教員を配置せずに遠隔配信で授業ができるとなれば大きな人件費の削減になるわけです。うまくいけば複数校に同時に進学講習ができて、働き方改革にもなるかもしれない。学力向上にもなるかもしれない。そんな計画です。
 話は少し飛びますが、朝の連ドラ「おかえりモネ」を見ています。先日こんなシーンがありました。普段は自分の感情をわざと抑制するように仕事をする医者の菅波先生が、自分の思いやりで突き進んで仕事をするモネをみて、自分の過去の経験から葛藤する場面です。新人医師だった菅波先生は患者のために考えたガンの温存療法が失敗し、患者さんが希望も絶たれながら亡くなった経験があったのです。この患者さんにとっては菅波先生を信じず、ベテラン医師を信じた方が良かったかもしれません。でも、こうした葛藤を背負って菅波先生が医師を続けていくことは、時を経て、別の患者さんを救うことができるかもしれないなぁと思いながら見ていました。医療、福祉、教育っていうのは人と人が直接関わり合う訳ですから、若いときに相手を裏切ってしまったという経験はきっと生きてくると思うのです。
 高校配置の意見交換では、高校企画・支援係の方が新しい教育政策について説明してくれます。話が遠隔配信事業に及んだときです。これまで傍聴意見やアンケートで何度もそのリスクについて書き込んだので、今回は視点を変えて話をしました。
「仮に、地方で長く経験を積んだボクが遠隔配信で理科の授業をしたなら、きっと生徒さんはこんな授業を受けたかったと喜ぶと思いますよ。生徒さんが満足すればそれでいいのでしょうか。それなら、授業名人が一斉に配信して授業をすれば良いと言うことになりませんか?いずれはAIに授業させるなんてことになりませんか?それでいいのでしょうか?」
 教育は人と人がやるから意味がある。うまくいけばいいというものではないと思うのです。勉強を教えるというだけでは無くて、寝ている生徒に「昨日はゲームばかりしたべ」と声かけしたり、友人とけんかして元気の無い生徒がいるからこんな話をしてみようと考えてみたり・・・。親が亡くなったばかりの生徒が一生懸命勉強する姿にこっちが勇気をもらう。そんなことの積み重ねが授業だったりするわけです。生徒さんにとっても、休み時間や放課後の時間を先生と一緒に過ごすことで、「自分を理解している人が授業してくれる年間100時間くらいもの時間」をともに過ごすことが授業の意味だったりするわけです。特に田舎の教育にはそうした教育の本質が詰まっているんじゃないでしょうか。若い先生達ばかりだから熱い思いの中で失敗もするしうまくいかなかったりする。「おかえりモネ」の菅波先生と一緒です。だからといって授業名人が授業すればいいというわけではないと思うのですがいかがでしょうか(たまにやるくらいなら意味は違いますが)。
 ボク自身の経験を言えば、1校目は生徒さんに本当に申し訳ない失敗だらけだったと思います。2校目、3校目なんかで生徒さんに感謝の言葉をもらったとき、申し訳ないことをした1校目の生徒さんに「少し恩返しできたかな?」と思うわけです。実際にFaceboookでそんな話を投稿すると、初めて担任を持った生徒さんが「おっ!どーばも成長したな」とコメントしてくれることもあります。
 特に遠隔配信の授業は、当該校の教育がうまくいっていないときに大きなリスクがあります。担任の先生とぶつかりまくっているとか、席にも着かない状態になっているときにリスクが大きい。さらには多様な進路に答えるために、遠隔配信をすると言うならそれなら予備校等の配信がもっともニーズに合っているわけです。
 やっぱり、人をしっかりつけることが原則です。遠隔配信授業が多様な教育方法の選択肢の1つならばいいかもしれませんが、それしか選択肢が無いとなると教育にとって大きな損失になるように思います。