5・3シンポ(2002年5月3日)

「札南卒業生は何を考え行動したか」熱く討論! 

 発足総会後、「道民の会」の初めての企画として、5月3日、シンポ「札幌南高校の卒業式をめぐる出来事と子どもの意見表明権について考える」を開催しました。このシンポには、会員をはじめ130名が参加しました。南高卒業生3名と南高の問題にかかわった弁護士がパネラーとなり、今春の南高の卒業式をめぐる経緯や、卒業生が何を考え「君が代」の押しつけに反対の運動にとりくみ何を学んだかを中心に、熱心に討論が行われました。
昨年12月に札幌南高の生徒有志から卒業式の「君が代」実施について人権救済の申し立てを受け、弁護団を結成し今年2月に校長に対して勧告を出した弁護士の一人である、田中貴文氏は次のようにのべました。
 「子どもたちがこれだけ反対するのであれば、意見を尊重しなければならない。英語が嫌いだから、体育が嫌いだから、やらなくていいとなるのか、という意見もあるが、しかし、こうした問題と『日の丸・君が代』問題はまったく価値が違う。後者は憲法19条(思想・良心の自由を定めた)に直結するもの。学校側はやめることも含めて尊重しなければならなかった」
 卒業生の3人はそれぞれ次のように語りました。
 Aさん:「君が代」の「強制」とは。「君が代」を歌う、歌わない、立つ、立たないことについて、個人の考えを表明することを強いるのも強制だと思う。一人で行動せず、みんなで相談しながら行動すること、時間をかけて話し合うことを大事にした。
 Bさん:卒業式はいろいろな考えの人が集まる場所。生徒がかかわることを大事に、気持ちよく卒業していけるものにしたい。憲法・法律があって「ひと」があるのではなく、「ひと」があって憲法・法律があるのだと思う。また、僕たちの活動を武器にしてほしくない。自分たちでたたかってほしい。
 Cさん:「自由な校風」の学校で高校生活をし、「自由」とは「拘束なき自律」であり、縛られることなく自らを律することだと考えるようになった。大人は「わかったような口をきくな」と言うが、現時点で考えわかっていることを言うことが大切だと思う。
 フロアー発言として、パネラーの卒業生の親から、卒業式について職員会議で一方的に決められるのはなぜか、なぜ保護者の意見を聞く場面をつくらないのか、「日の丸・君が代」の強制に反対している教員の動きについて意見が出され、学校の教育活動を行うために教職員・生徒・父母の話し合いと合意が大切なことが確認できたシンポジウムでした。 シンポジウムの終了後、「子どもと教育・文化 道民の会」は結成後初めての世話人会を開き、ホームページ開設、会員拡大、教育基本法改悪反対の署名運動について確認しました。


5・3シンポ 参加者の感想から 

市民運動はいつも年寄りばかり・・・と思っていましたが、若い高校生たちの真摯な闘いぶりを伺い、大変感激しました。
事が成ってから後悔し、あわてて運動するというのが常ですが、今日のテーマを始め、有事法制の問題も猶予ならぬことです。心を合わせて真の自由、人権確保のため闘っていきたいと思いました。感謝!(女性)
若い人のまっすぐな心を聞く機会を感謝します。私も自由って何だろうといつも考えています。不自由ってどんな事だろうといつも、学校で子どもたちと接していて悩んでいます。私は肢体不自由養護学校というところで働いていますが、子どもたちのまっすぐな心にぶつかると、困難な事があっても幸せだと感じながら生活しています。その子どもたちの生活の中で一つだけ、私なりに考えたことを感想として書いておきます。一人ひとり、子どもたちはたとえ体は不自由であっても、言葉を表出しなくても、すばらしい手段で、まっすぐな心を表現してくれます。その表現をいつも悩みながらも、時々理解できたときがとっても幸せです。その意味で、今日はとってもよかったと感じました。(男性)
「日の丸・君が代」問題を「内心の自由」を守るためのたたかいとして、職員会議でも発言しつづけている者です。生徒たちにも可能な範囲で私なりの説明をしています。いかなる形をとっても「日の丸・君が代」の実施と「内心の自由」の保障とは両立しえないと思っています。そして、春先の特定のシーズンにだけ職員会議(職員だけで)で「内心の自由」を叫ぶことは、フェアではないと感じはじめています。今、日常生活の中で学校の中における「表現の自由」をどう考えていくかという問題にぶつかっています。時間をかけてゆっくり考え、実践を積み上げていこうと思っています。この問題(日の丸・君が代)だけでなく、あらゆることについて生徒、保護者、先生で声を出し合って学校づくりをすすめていく取り組みが求められています。ひとり一人がその場で(現場で)原則にのっとってたたかっていくことが大切だと強く思いました。今、ふつうのことを学校で実現することこそがたたかいだと思っています。(男性)
「君が代」に対する南高のみなさんの行動力に感心しました。本当に受験でうるさいときに、よく頑張ったなあと思いました。「君が代」は決して強制ではないと、国会では言われたのに「学習指導要領}に書いてあるからといって、強制するのは本当におかしいと思っています。また、南高で「君が代」が実施されていないので(これは絶対そうだと思いますが)、行政のトップが校長になってきたのですね。こんな形で実施率を上げている教育委員会をはじめ、文部科学省のこそくさに腹が立ちます。子どもの権利条約を批准しているのに、まったく守らない日本、これも許せません。
今日は憲法記念日です。私は家庭教師をしていますが、必ず、子どもが聞きます。「第9条があるのに、どうして自衛隊があるのか」と。今回も同根だと思います。法律や条約に明記しているのに、実施の段階ではねじまげられてしまう。これが、今の日本ではないでしょうか。こんな中で子どもたちが、健やかに育つわけはありません。そんなねじ曲がった世の中を変えていきたいと思っています。(女性)


 発足集会(2002年2月2日)

 
子どもと文化道民の会への思いを、5名の会員の方に語っていただくリレートーク。
子育てに奮闘中の母親、受験戦争に疑問を抱き、不登校だったこともある現役高校生など、いろんな方の目から見た教育の現状が見えてきました。
これは、教育者の立場から、松岡よしかずさんが発表している所。
今の教育現場に愛とロマンが足りないと思い、人形劇団を子ども達とつくったことを話してました。
 

不登校の子どもを持つ親の会”トポス”の門前さんは、道民の会の呼びかけ人の一人です。
子ども一人一人の個性を認め、一緒に生き方を考えることがどれほど現代の子ども全員にとって必要か、運動の紹介をしながら語りました。
  弁護士佐藤弘文さんは、若者の法律相談が多い現在、9年から12年の学校生活の中で、働いて生きぬく知識や知恵を教育されてないことを指摘し、このことについて大人はどう責任をとってゆくかが、これからの問題だと提起しました。

馬場事務局長から方針と役員の提案、「今、子ども達は困難な社会の中で精一杯生きている。教師も親もがんばっている。なのに、どうして、子どもに”オレの人生は、もの心ついた時からゲームオーバーだ”といわせてしまい、少年事件が多発するのでしょうか」と問いかけ、皆さんで問題を学びあい、語り合いましょうと呼びかけました。   休憩前に発表したゴスペル・チーム『マルチ・カラー』のメンバーの歌声 ”Oh! Happy day”。
昨年高校卒業したメンバーは、今も、当時高校でゴスペルを歌わせてくれた先生と連絡をとりながら、夢に向かって、社会人となった今も歌い続けます。パワフルなリードヴォーカルと楽しそうなメンバーに、会場は拍手喝采。こんな若者が21世紀を創るんですね。

第2部は、ヤンキー先生の愛称でTVでも有名になった、北星余市高校の教師、よしいえ先生の講演。
”ボクなんかを呼んでいただいてありがとうございます”と礼儀正しくあいさつする姿に、昔のヤンキーの面影はもうありません。ところが、自分の生き方を振り返って昔の口調で話すシーンは、こちらもつい”ビビって”しまう名調子。そんなよしいえ先生の人生をかえたものは、「あなたは私達の夢なんだから」といってくれた一人の教師との出会いだった…。
  記念集会のラストは、よしいえ先生の話を聞いて胸がいっぱいの司会者が、マルチ・カラーのメンバーの歌に囲まれて、会の呼びかけ文を読み上げます。
美しいハーモニーの中で、多くの人の願いでつくられた呼びかけ文は力強い。会場に一体感がわき起こります。次回は貴方もぜひ参加して下さい。よろしくお願いします。


記念講演 ヤンキー母校に帰る 義家弘介さん(北星余市高校・教諭)

 2月2日に開催された「発足記念集会」での義家先生の講演は多くの参加者の感動をよびました。講演の要旨を掲載します。

 北星余市高校の義家です。今日の題は「ヤンキー母校に帰る」ってなっていますが、ヤンキーって簡単に言いますけど、自分31歳になりますが、人生の三分の二はうしろ指さされるようなものだったような気がします。誇りなんかではなく自分のけじめどうつけていったらいいか、いまも苦悶しながら生きています。ヤンキーとか不良とか言われる存在は、いつしか年をとって「俺も大人になったよ」というイメージがありますが、自分にとっては、いま、人間としてまた教師という立場で、自分が傷ついた、自分を取り戻した学校という場所で必死に生きている気がします。これから教師になるまでの歴史をお話したい。

1.少年時代〜愛して、認めてほしい

 72年3月に私は、未熟児としてこの世に生を受けた。ケチのつき初めというか、実は離婚の調停中に生を受けた。父と母が親権どちらにともめていた。そんな状態でバタバタしていると感じて生まれたのではないか。そして結局私は、父に引き取られた。会社を経営していた父は家にいないので祖父母に育てられた。祖父母は自分にとってかけがえのない存在でした。家庭は父と母がいて役割分担するのがベストなんだろうがそういう場面に出会えない中で、父親の再婚がありました。自分が7ヶ月という時でした。姉がいましたが、新しい母親に弟が生まれました。
 どこの家庭でもあるでしょうが、イス取りゲームが家庭で始まった。子どもは親の膝の上にのる。当然新しく生まれた子は母の膝に。お父さんの膝をめぐって姉とのイス取りゲーム。私は負けてしまった。私にとっては家族団らんが寂しく苦痛で、食事の時間がすごく嫌いだった。自分はご飯食べるのがとても速い。その始まりは、早く終わらせて自分の部屋に行きたいということだった。すごく悲しい。寂しかった。何となく寂しい、認めてほしい、愛してほしいと心の中で感じながら幼稚園の年少時代を過ごしてきた。やんちゃを始めるようになった。
 年少組にいる時からボス的存在に。そのやんちゃが嬉しかったことがある。自分の子どもの時は王さんが活躍していた。野球が流行っていた。バットをみんなで持っていって、畑を荒らした。リンゴをばったばったと落とした。親父から農家の苦労を知らないとこっぴどく叩かれた。その後であいつは面白いことをすると親父が話していた。悪いことしたのはわかっているが父親は誉めていると思った。このときは本当にうれしかった。それがきっかけになりいろいろやった。小悪をするようになった。でも、ひずんでいたかというと決してそうではなく、なぜ自分がそうなっていったか説明できないが、その一因として嫁姑の関係が強かったと感じている。義家は古い家庭でした。おばあさんが後妻に冷たくあたった。そして、母親の責めの対象が自分に向いていると気がついた時に、少しづつ母への憎しみが芽生え始めていった。家庭内での二重教育が始まった。例えばこんなことが。長野は盆地で寒い。おばあさんが何枚も重ね着をしてくれる。そんな自分の姿を見て母親は一枚づつはがしていくなんていうこともあった。「今に見てろよ」と憎しみが芽生えていく。なんで八つ当たりされなくていけないんだ。それが教師にも向いていった。
 自分は三月生まれ。小さい体だったので、ランドセルが少年を背負っていると親父がよく言っていた。勉強もできない。席に着いているのが精一杯だった。松尾君という勉強できる、スポーツできるのがいた。二人でいたずらして見つかり謝りに行った時のことですが彼に向かって「なぜお前がついていながらこんなことを」の先生の一言。待てよ、あいつが言い出したことだろう。同じことをして自分がしかられ、彼には「お前がついていながら」と言われるんだ。それは、彼は勉強できて人に優しくてスポーツもできた。そこでひとつ学習した。勉強できると教師は甘いと感じた。そんなこともあってそれから勉強に没頭するようになった。意地でも100点取ると。その裏でいたずらをした。トムソーヤの冒険でもやっているように、外でいたずらして、勉強だけはしっかりやろうと、強く思った。
 中学でも同じで、自己顕示欲が発揮された。髪を染める、背伸びの発言をする、いろんなことをやった。不良の行動は能動的ではなく、受動的なもんです。要するに周りから認知されはじめた時、枠からはじけると不良が出始めるんです。
 初めから人に嫌われたい人間がどこにいるか。できれば大切にされたいと思う。だけど大切にされない現実がある。自分の気持ちを「不良の行動」以外に解決する方法が見つけられない。いつしか「この子はわがままで生意気で自分勝手でけじめなくて」という周囲の目に押しつぶされる。そういう見方を自分が受け入れた時に、人の意見を聞かない自分となっていく。
 中学校に入ると、当時は「横浜銀蝿」がかっこいい、そして「チェッカーズ」、髪を茶色にしていたフミヤ。入学式では短ラン着て藤井フミヤになった。小さいから威圧感も迫力もないが、自分ではカッコいいなと素直に思った。どうせ嫌われ者だしと一方では考えていた。入学式迎えて本当の意味で「認知される不良」になった。入学三日目に、先輩からテニス部の部室に呼ばれた。その時に感じた恐怖、半端じゃない。相手はパンチパーマでヒゲ生えている。「ハイ」しか言えない。恐くて反抗できない。自分にとって、先輩たちは別世界の人間だった。「お前許さない」と近づいてきた。甘んじて暴行受けた。泣きごとを言わなかった(実は恐ろしくて何もできなかったのですが)自分を見て、先輩たちは「お前、根性ある」と言って、「一年生をお前に任せる」ということになった。「お前も吸ってみろ」と、セブンスターを差し出された。吸ったことない。吸い込んでみた。クラクラしてなんとも不思議な感覚で、大舞台にデビューした、特権階級に入ったと思ったんです。父親に自分の気持ち気づいてほしいと思っていた。自分を包んでくれた存在が、学校、家庭からあふれて来た「不良」と呼ばれる者たちだった。彼らが自分を受け入れてくれ、許してくれ、思ってくれる。正しいか間違っているかというと間違っていたと思うんですが、当時、自分は安らぎを感じた。ケンカやって相手を傷つけたりもした。そしたら次にバックが出てきて自分がやられる。そんな時「カタキとって来てやるからな」と言ってくれる。先輩たちは、自分には温かい仲間だった。やっていたことは充分悪いことだが、でも、すごく安心できる空間だった。だから家に帰らなくなった。知らないこと教えてもらったり、様々なことした。自分にとっては、安らかな時間、自分を受け入れてくれる時間だった。
 勉強のできる不良、かっこいいでしょ。夜中まで遊んで、夜中まで勉強し、学校ではゆっくり寝るという生活だった。教師は余り怒ってこない。俺にひれ伏す時が来たかと思っていた。教師はちょろいもんだと。HR運営する時に、力強いところに頼ってくると。そして進学校に進んた。今私は教師やっていますが、いまだったら許せないですね、そんなもんがいたら。

2.退学、そして人生のターニングポイント

 ひねた存在だった。でも一皮向けば弱い十代の少年だった。それが転機になった。学校ではつまらなかった。高校はわかろうとわかるまいと進度すすむんです。すごく無機質な空間に感じた。どろどろしていた中学校時代とはまたちがったところだった。謹慎も高校に入って直ぐに受けた。中学校では何をしてもそれはなかった。高校をなめていた。最終的にはやめることになる。学校がおもしろくないとなると、夜の街に出るようになり、地域の不良少年から市内の不良少年にステップアップしていった。町を歩くと怪しい金髪がいる。同級生が「ヨー」と声をかけてくる。家に居たくないと思ってしまう。辛い思いするくらいなら仲間といる方がいい。みんなが自分を認めてくれる。そんなことをしているうちに「こんな生徒、置いておけない」ということで自分は、学校を失うことになった。
 退学したって何とかなると思っていたが、そんなに甘くなかった。希望が持てなくなった。自分の世代はベビーブームでした。高校入る時倍率は2倍あった。生徒足りないところなんてないわけですから、やめても入れてくれるところない。人生閉ざされたと感じた矢先、父親が告げた。「おまえは、散々俺に迷惑かけてきた。学校やめた以上、家にはおけない」と。児童相談所に預けられることになり、家を後にした。これから一体自分はどうなるのか、絶望でした。いずれにしても家を追われて戻れない。「どうなる?」一週間、ずっと泣いていた。あきらめるしか方法はなかった。相談所の人たちがいろいろ考えてくれて、ある夫婦のもとに里子に出されることになった。15歳でした。自分の人生のターニングポイントになっていったと思う。知らない人の家に行き、仲間とも断絶。自分には自分と向き合う孤独しかなかった。引きこもり、外が恐いとおもった。大人って力があると思った。自分はただのちいちゃな人間だと気づいた。大人は抗することのできない強大な存在だと思いました。里親からは「何もしなくていい、”離れ”で居てくれればいい。三食一緒に食べてくれればいい」と言われました。何もしなって、人間にとって一番つらい時間なんです。まったく何もない。朝がやってきて食事し部屋に戻る、昼に昼食をして部屋に戻る、そして夕食をして部屋に戻る。そのくり返しの生活、一日がとても長く感じた。何もしない生活を一年間した。一日中テレビを見たけど、飽きるのは当たり前、何も満たされない。当然自分のこと考える。「ここから自分は脱出できるんだろうか」と。里子は18歳までしかダメなんだ。「自分の将来はどうなるんだろうか」心を閉ざして生活した。
 そんな生活のなかで、革新的?な(と当時は思った)本に出会った。心が揺さぶられた本でした。離れは、哲学科にいっていたお姉さんの部屋。哲学書があった。よくわからないこと書いていた。その中でヘーゲルの本に出会った。多くは理解できなかったが、弁証法という言葉に出会った。否定と肯定のくり返しのなかから統一へ向かうという考え方にであった。今までの人生ではすべて否定し続けてきた。親、教師を許せないと思ってきた。友達だって自分がこうなったら去っていった。果たして自分は肯定をしただろうか。すべてを誰かのせいにして否定し続けてきたのではないだろうか、果たして裸の心で受け入れたことあったのだろうか。決してなかったのではないだろうか。自分に大事なのは今を受け入れることだ。矛盾から統一へと向かうためには肯定することではないかと、弁証法というものを16歳なりの解釈で感じた。肯定すべきもんと言ったら何か。選択肢の一つに学校への復帰があった。当時は単位制高校もない。「市内で別の高校行くのは許さない」という父親の感覚もあった。高校へ戻りたいとの漠然とした思いがあった。
 そんな時、88年、「こんな学校もあるよ」と里親が見せてくれた。北星余市高校が中途編入者を受け入れると新聞に載っていた。おじさんおばさんから頼んでほしいと話した、これからは一切迷惑をかけない、チャンスくれるようにと。父は、「本当に嬉しい」と言ってくれた。父は俺が言い出した時に本当に嬉しかったらしい。それは、問題児が自分のそばからいなくなるというのが理由だった。それ聞いた時に許せると思った。周りに迷惑ばかりかけている人間、自分と合わない者がいなくなってくれた方がいいと、本音で言うおやじの姿を見て本当にそう思った。その時に、自分の中で親父との軋轢のすべてがなくなったような気がした。

3.北星余市で−人生の師との出会い

 中途編入の最初の年に、北星余市高校にやってきた。当時は不登校より挫折組が多かった。行く場所がない者がたくさんいた。集まった連中を見て中学の時を思い出した。パンチパーマとかリーゼントとか、自分はやっていたが長野では少なかったが、そこには「本物だ」という者がいっぱいいる。千葉のスペクターで頭やっていたというものも。そんななかで「俺も悪かった」と言うしかなかった。同じ傷という共通項があった、俺もなんだと。気持ちを共有できるものがいた。でも、それだけだったら中学時代と何も変わらない。その点で、北星余市は違っていた。生徒に関わる教師が違っていた、地域が違っていた。自分たちは全国から寄せ集められるようにして余市にやってきたが、余市の大人はかっこ悪くそして真剣だった。下宿のおじさんやおばさんも教師も、初めから気づくほど大人たちがいろいろ関わってくれた。
 しかし、自分たちは大人になっていないから、ここでもひと暴れしてさっそく停学受けたり矛盾だらけの自分だったりもしたが、たしかにここは違っていた。そんな時、安達先生という恩師に出会った。尊敬している人物です。ことの始まりは、つまらないことから好きになった。自分は特権階級と思っていたので掃除などしたことなかった。ある日その当番の一人になった時に、なにもしないでそのまま帰った。そうしたら先生が下宿にやって来て、真っ赤な顔して「あなたは掃除サボるのか、それは許されない」。先生は上手に表現できないがとにかく「許さない」とくり返し自分に迫ってくる。許さないと赤い顔して言う。「机は下がっています。明日学校に来てみんななんて思うかしらね」。俺はけっこう踏ん張った。でも先生はたかが掃除で一時間粘った。しかたなく学校へ行き、暗くなった教室で先生と二人で掃除した。そんなことしているうちに「この人、嘘くさくないなあ」と思った。先生はいまでもそうなんですが直球しか投げない。それもへなへなした直球なんです。俺が受け止められる速さで投げてくれていたんだろうといま考えるとそう思う。ポンポン届く直球。卒業するまで数え切れないくらい投げ込まれてォた。その直球に応えようとする自分がいることに気づいてきた。あれだけかたくなだった不信が変わってきた。仲間たちとの出会い、先生との関わりが自分の心を溶かしてくれた。希望を持って大学に進むことができた。

4、九死に一生を得て、教師への道を

 安達先生は自分の人生の師でもある。大学時代の事件によってそうなった。親からの仕送りもない状況ですから、大学ではキャベツ生活を過ごした。100円のキャベツで一日は千切り、次に炒め物、そして煮物。キャベツ一つで誰にも甘えずに生きていける。たばこなんか吸えない。金ないから。日雇いのバイトもやった。家庭教師のバイトやった。自給で2,000円から5,000円、2時間で1万円。その子は東大に入った。その子の方が俺より頭いいだろうけど、すごく感謝された。夜中にファックス入る、わからないんだと。自分もわからない。必死に考えてファックス送る。わかりやすい先生だと言われる。真剣にやって返す球は真剣だという事実だけで許されるものだろう。大学に入ってとにかくビックな人間になろうと思い、自分は弁護士をめざして勉強した。とにかく勉強した。一日15時間勉強した。法学部にいましたが、大学へは行かずにレベルの高い予備校でやった。
 そんな時、自分の人生を変える事故を起こしてしまった。大学4年の秋、バイト帰りにバイクで転倒した。辛い記憶だからはっきり覚えていないがお酒も少し入っていて事故を起こした。内臓破裂させた。胃、腸、膵臓が破裂する。危篤状態がつづいた。その時に高校時代の恩師が学校休んで横浜の病院の枕元にいた。自分が記憶のない時に、生死を行き来していた時に、先生が枕元で泣いている。オムツ取り替えている。口から吐くのを拭いてくれる。そしてこう言う。「あなたたちは私の夢なんだからこんなところで死んではいけない」と。自分はこれまでそんなことばかけられたことがなかった。ドラマなんかでそんなことば聞いても「何行ってやがるんだ」で終わるけど、自分がそんな言葉を聞ける人間だったのか、何もなかったみんなに嫌われていた自分が、枕元でそんなことを行ってもらえる価値ある人間なのかと自分に向かいながら考えました。そしてその時、この人の30数年歩んできた道のつづきを歩んでいこうと決めたんです。母校に戻って行くんだと。それが現実になるのか。現実に母校に帰れるのかと考えると、普通に考えたら目指したとして一番古い先生がやめないとなれない。ほとんど入れる可能性はミニマムだった。だけど自分はそれを信じた。そうなることを信じていた。その為に必死に努力した。北星の教師になるにはわかりやすい授業をしなくてはならないと思い、まず、予備校の教師になった。でも、教える内容が難しすぎるんです。小中学校の生徒にもわかるような勉強どうやるんだということで、北海道に帰って、塾の仕事をした。塾では年4回生徒からアンケートを採って「わかりやすい授業、わかりにくい授業」の評価を集めるんですが、私はすごかったですよ。何がすごいって、北星余市に帰ってわかりやすい授業をどうやるかという意志がすごかったと思います。塾での授業が終わる10時過ぎから夜中1時、2時まで教材研究したり、板書を何度も書いたり、どこでどういうギャグを入れるか考えたり、とにかくわかりやすい授業を追求していった。それが今の土台になった。そんなことをしているうちに、99年4月、ようやく夢が叶いました。その時28歳になっていました。
 いま、泥まみれになって、2年生の担任として日々やっています。1年間は恩師と背中を並べて働きました。自分の師事している人間と同じ場所で同じ思いでバトンタッチできるまで仕事ができたのは生涯の誇りとです。今後それに恥じない人間になろうと強く思っています。

5、思い、情熱を伝える教師になろう

 北星余市高校は今も昔もこれからも社会の歪みからさらにもれてくるこどもたちと向き合っていく使命もっている。自分の使命としても同じように社会の歪みの中でもれて生きている人間として彼らに寄り添う使命があると感じている。偉くなりそうになる瞬間って教師にはある。自分の考え方ひとつで生徒をけちょんけちょんにすることできる。その時常に自戒の念にかられる。その時、自分は偉くない、必死に生きてきたこいつらの仲間に過ぎないと絶えず胸に打ちつけながらやっている。
 時代といえば変だが、いまの時代本当に混沌としている。教育の崩壊が叫ばれたり、よくわからない大人が出て来たり、ある意味では、子どもは不幸だと思う。団塊の世代の時代は、少なくともいい高校に入り、いい大学に入って、いい企業入ればいい人生が待っているという概念や公式を社会から与えてもらっていた。ではいまはどうだろうか。いい高校・いい大学・いい会社に入っても、大人たちはリストラの不安でびくびくしている、死んだように街を歩いている。こんな姿を見て「イミないじゃん」、そう思う子どもが出て来るのは自明でしょう。学校でも、昔より教師の言うこと聞かなくなった、教師の質が下がったわけではない。しかも「本当に教師になりたい」と思う人が多い時代で、なりにくくもなってきた。その力が大幅に落ちてきているわけではない。親の思い、子どもにはせる夢が軽くなっているわけではない。昔と変わらない。では「崩壊」が叫ばれている原因はなにか。「権威」による関係が崩壊した。利益ない権威に従う人どこにいるか。学校において「点数を取れ」の権威は彼らには何の意味もなくなっている。静かにしろと言っても聞かない。いま何が必要なのか。「大変だ」では始まらない。本気です。本気にやつらのことを思い、本気にやつらを好きになって、本気になって泥にまみれれば、やつらは応えてくれると思う。本来自分はクールで、すかした男なんですが、彼らの前に出ると三流の漫才師。なぜなのか、彼らの笑顔見られれば最高だ。だからひとつひとつの場面で自分はきれいでいられない、かなり汚い、なんてかっこ悪い先生だと思われるくらい失敗もするんですが。夜中に2時間も電話かけてくる高校生、変だよね、彼女できたんだって、と。彼らと一緒に泥だらけになって一緒に泣いたことも。そういう積み重ねの答えだったと思う。
 希望持てない時代だと言われる。では大人たちは教育に希望もっているか。教育に希望をもてない大人。大人たちでさえ持てない希望を子どもたちが持てるはずがない。だとすれば現状は混沌としたものであり続けるというのは自明です。自分の好きな言葉があります。魯迅の言葉ですが「希望とは道のようなものである。歩く人が多ければそこに道ができるのだ」。多くの人が希望を見い出し、自分の足で歩き出せるなら狭い道かもしれないが道はできていくと思う。
 いま子どもに関わる、教育に関わる大人たちとして、彼らに何を要求していくのか。自分は、さまざまなものにさめてそして諦めてきた彼らに、熱を注入していきたいと思う。そこには方法論もない。時として「お前は直球ばっかり」と揶揄されることもある。でも、傷ついた心には直球しか届かない、変化球によって子どもたちは傷ついている、大人たちの教育の技術などというものは裸の心をもつ子どもたちの前では無力であり、情熱伝える教師になろうと思う。希望なくした子どもが北星余市で光を取り戻して卒業の区切り迎える。不登校だった子がなぜ北星で皆勤になることができるのか、北星の多くの教師が泥だらけに向いている答なんだろうと思う。きれいごとでは語れない。最近の事件もありましたが、真正面から涙流しながら乗り越える、壁を壊していく。自分は教育によって歪み、教育によって生まれ変わった人間です。残りの人生は教育とともに真剣に諦めることなく歩んでいきたい。壁はたくさんある。今もあたっている。その壁にさえ彼らと共にあっていきたい。今日はどうもありがとうございました。
 


自由というタカラモノ 加藤多一(児童作家・道民の会代表世話人)

 チャボを飼うことの楽しさ─その第一は草地に放してやると自由に歩きまわって、各種のエサをさがす─その「自由な動き」を見るひとときにあります。

 健康なイキモノは、とにかく「自由」が好きです。チャボも犬も蝶も、赤ちゃんも少年少女もー
 というよりも、(安全が先だけど)イキモノは「自由」がないと生きられない。酸素のないところを察知して生きのびていく川魚のように、子どもは、エネルギーのある分、必死に束縛から逃げようとする。イキモノに近いから「ワナ」を察知して生きのびる。そういう力を、もともと体内に持っている。
 以上が、ヤマベ釣りに夢中になりつつ、子どもの実相になんとかせまって、子どものための文学をやってきたタイチの「実感」であります。
 ただし、この実感を理論的につみあげて説明せよ、といわれるとこまる。そういう力は、ないのです。
 人間が作る組織というものは、社会を動かしていく組織(というよりも個の対称としては集団)の必要性の力は認めざるを得ないけれど、そして個の存在はつねに社会的存在でしかないーと認めつつも、このように生きているタイチの実感は、少し違って、個の尊厳と圧倒的な「自由」にこそ、信をおきたい、と願っています。
 文学に限らず芸術一般、というよりも研究も、子どもたちの「学習」も「発展」も、個の尊厳と自由、そして権利において対等、ここから出発する。いつも出発し直すーという信念を、自分の体内に育てていきたい。
 チャボの話に始まりここまでコトバをたどってきて、見えてきました。
 なんのことはない。改悪しようと狙われている「教育基本法」の第一条そのものじゃあないですか。
 そして、この「道民の会」の目標と重なるではありませんか。
 この会で何かの役割をするときでも「タイチという個の充実」を優先させたいと思います。そうしないと、内発力がでないのです。
 




──── 教育基本法 ────

  われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
  われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
  ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。
第1条
(教育の目的)
教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
第2条
(教育の方針)
教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他との敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。
第3条
(教育の機会均等)
すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
  国及び地方公共団体は、能力があるにもかからわず、経済的理由によって修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。
第4条
(義務教育)
国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。
  国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。
第5条
(男女共学)
男女は、互いに敬重し協力しあわなければならないものであって、教育上男女の共学は、認められなければならない。
第6条
(学校教育)
法律に定める学校は、公の性質をもつものであって、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置する事ができる。
  法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職務の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。
第7条
(社会教育)
家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。
  国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によって教育の目的の実現に努めなければならない。
第8条
(政治教育)
良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。
  法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又これに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。
第9条
(宗教教育)
宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。
  国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。
第10条
(教育行政)
教育は、不当な支配に服する事なく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
  教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するのに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。